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リオ、サンパウロでのライブ

RioArmazem 4

11日のCD発表のショーの翌日に日誌を書きたかったのだが、続いて予定されていたサンパウロのinterior(内陸地方)でのショーへの準備と旅で、まったく落ち着いた時間がないまま一週間がたってしまった。そんなわけで、日誌というには古いが、まだ新鮮に蘇るいくつかのシーンを思い出しながら、つづってみようと思う。

前の週の木曜にようやくリオに届いた僕のCD「トロバドール」発表のショーは、11日、リオのレブロン地区、Armazem Digitalで行われた。CDのブックレットにも美しい文章を寄せてくれたBip-BipのAlfredoアルフレード店長が、舞台で開演のあいさつ。ありがたいことだ。

Alfredo

メンバーは、フルートにAna Carolina、ハーモニカにOtavio Castro、パーカッションにBerbel、Paulinha、Alpheoの3人、ヴォーカルにPatriciaとLuiza。僕以外に総勢7人(すべてCD録音の参加者)が、入れ替わり立ち替わりでのショーとなった。サンパウロのピアニストWanderleyは、前日の電話では、Roberto CarlosとCaetano Velosoのジョイント・ショーの、リオでのリハーサルの後、キーボードが手配できればかけつけると言ってくれたのだが、結局リハーサルが深夜に及んだようで、参加できず。残念。しかし実際のところ、舞台がさほど広くないのでキーボードの載るスペースはなかったのだが。また、渋いノドを聴かせてくれるはずだったバックヴォーカルのDidiは風邪でダウン、カヴァキーニョのDanielも弁護士の仕事で急用ができて断念。しかし、7人もの応援があって、寂しい気はしなかった。
演奏は、みなよくやってくれた。思えばCDの録音は僕の狭い部屋で、それぞれの演奏家を別々に呼んで録音して、最後に機械の中でミックスしたのだから、この舞台の上で、ようやくCDの中での共演者どうしが、「実際に」共演したことになる。一番それに興奮していたのはCDをプロデュースした僕かもしれない。

Otavio Castro


ショーは最後“Berimbau/Consolacao”のメドレーで盛り上がって終了。アンコールの求めに応じて舞台に戻ると、客席から“Beatriz!”の声。もう本編で歌った曲だったので「え、またBeatriz?」と僕が言うと、その声の主が「だって美しいもの!」と。嬉しいじゃないですか。よし、やりましょう、前より美しく!そのBeatrizの後、アンコール用に予定していた2曲を演奏してライブ終了。
こんなにメンバーが入れ替わり立ち変わりのショー(僕の今回のCDは曲ごとに参加者や楽器の組み合わせが異なるので)は、5年前のアルゴ・ボサノヴァ教室発表会以来なので自分の演奏より、進行係のほうに頭が行って、どうだったかな、僕の演奏のできは、さほどよくなかったのでは、と思うのだが、後で嬉しい感想も聞けて、ほっとした。
そしてこの日も、助っ人のプロデューサーWalterの働きは素晴らしかった。僕ひとりでは、きっと当日てんてこまいになると予想したので、はるばるサンパウロから来ることにしたそうである。バスで6時間かけて、である。店側とのCD販売に関する交渉や、各ミュージシャンへの配慮、ショー開始後も店外に流れていたBGMへの苦情、さらに写真家でもあるからショーの写真撮影まで、よくまあノーギャラでここまでやってくれたものだ。惜しみない友情に感謝。
ショーの後、聴きにきてくださったOtavio氏(ジョアン・ジルベルトのマネージャー)と、Walterとともに、気持ちよくビールを飲みながら雑談。Otavio氏もBeatrizを絶賛してくれた。僕の歌うBeatrizは「世界一のBeatriz」、だそうだ。ありがたい言葉だ。
それと、大笑いしたのが、Otavio氏が「おい、ミチナーリ、ジョアンがニューヨークのカーネギーホールの出口でおまえを抱擁したそうじゃないか!」と楽しそうに言うので、またなにか冗談を言ってるのかと思ったらそうでなく、なんでもジョアンはその出口で待っていた僕(とジョアンが勘違いした、某日本人)に向かって「ミチナーリ、おまえは世界でもっとも偉大な歌手だ(o maior cantor do mundo)!」と言って抱きしめたというのだ。
「僕は一度もニューヨークに行ったことないですよ」と僕が言うと、「へえ、そうか」とOtavio氏。「いや、僕のスピリットがカーネギーホールまで行ったんですかね」と言うと、「うむ、そうかも知れん」とOtavio氏。
いずれにせよ、たいへん光栄な話である。いや、もったいない話である。そして、その間違って抱きしめられた日本人ファンは、たいへんな幸せ者である。
Otavio氏には、ジョアンへ進呈するべくCDを託した。「私の偉大な師、ジョアン・ジルベルトへ、深い賞賛と尊敬を込めて」とポルトガル語で献辞を記し、僕の漢字のサインとともに。

Armazem Michinari

CD発表ショーの余韻も冷めやらぬ中、翌々日には、サンパウロ州の地方都市Presidente Prudente における、SESC主催のショーに向け出発。まずはサンパウロ市へバスで移動。今度はCDの発表でなく、ボサノヴァ50周年記念のショーだ。初共演のフルーティストRichardと、打楽器奏者Lucimaraとリハーサルの後、プロデューサーWalterとともに夜行バスでさらに8時間の旅。
サンパウロと言っても、ほとんどマトグロッソ州との境に近い場所で、こんな内陸でボサノヴァねえ、と内心いぶかしんでいたのだが、翌日の劇場でのショーにはボサノヴァがほんとに好きな人々が集まって、まさに静聴していただいた。ほんとは、あまりに「静聴」だったので、楽しんでないのかと不安になったのだが、最後の曲を歌い終えた瞬間、多くの人がスタンディングで拍手、「もう一曲!」の声も飛び、「ああ、楽しんでくれたのだ!」と、ほんとに心から嬉しくなった。「海を感じたわ!」という女性の声も聞かれ、リオからはるばるこの内陸地方まで旅して来た甲斐があった、と思った。
いいことしたな、と素直に思う。ボサノヴァが生まれたその土地の太陽、海、風、そんなものを僕が、遠い別の土地へ運び、人々に供して、喜んでもらえるなんて、と。僕は日本人だが、リオから派遣された文化使節みたいな気がした。光栄な仕事だ。
ショーの翌日、今度は昼間の復路だったが、8時間、延々とfazenda(農牧業の平原)の中、まっすぐの一本道である。ああ、これがブラジルの広さだ、としみじみ思った。ボサノヴァの「海」をみずからのふところに秘め、こんな乾いた平原の一本道を旅するのは不思議な面白さだった。

サンパウロ市に戻って一泊して体を休め、さらにまたバスで6時間揺られて、ここリオに戻って来た。やはり、我が家は落ち着く。リオのアパートが「我が家」だなんて、2年前には思えなかったのになあ、おれもずいぶんこの街に慣れたものだ、と思う。 その住み慣れたリオにも、あと3ヶ月足らずで別れを告げなくてはならない。遠くない将来、再びここに帰ってくるのはわかっているが、しかし寂しい。
この寂しさは5年前に成田を発つときに感じた日本との別れの感覚とはまったく異なるものだ。あのときの寂しさは「心細い寂しさ」だった。自分の人生と音楽の行き詰まりの中、まるで日本からはじき出されるようなかたちで「しかたなく」異国へ旅立った感があった。それに、ブラジルで待ち受ける未知の日々への不安もあった。 その異国ブラジルが今ではなんと、愛すべき友人がいっぱいの、第二の故郷となってしまった。一方、帰らんとする第一の故郷日本には懐かしい家族、友人、自然が待っている。
というわけで僕は近頃、自分の体がまっ二つに、日本とブラジルとの間で引き裂かれるような気持ちがするのだ。
どうしたら、この引き裂かれる感覚を解決できるのか、まだわからない。が、わからないまま帰国するつもりはない。この先、どんな航路を採るか、アルゴ号船長の決断の時は迫っている。

Presidente Prudente


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