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"PINDORAMA"9月号から拙稿

サンパウロで発行されている月刊誌"PINDORAMA"9月号から、「新・一枚のブラジル音楽」の拙稿を紹介。
これまた避けては通れないカエターノについて、書いてしまった。



Caetano Veloso “Fina Estampa”
カエターノ・ヴェローゾ 「粋な男」

caetano_foto


いつかカエターノ・ヴェローゾのアルバムを取り上げなければと思いながら、ずいぶんと時が過ぎてしまった。僕の音楽人生に多大な影響を与えたアーチストの一人だが、彼の代表的「作品」とか「アルバム」を挙げよと言われると、これ、というのが見当たらない。なぜというに、彼のアーチストとしての本領は、断片的かつ詩的な表現「行為」そのものにあるのであって、結果としてできた構築的な産物(つまり作品やアルバム)からはその魅力が感じられにくい憾(うら)みがあるからである。
それでも今回、彼のオリジナル作品によるアルバムの最高峰、と僕が思っている “Livro(リーブロ)”について書こうと思い立ち、昨夜聞き直してみたのだが、どうも現在の僕の心に響かないので、書くのを断念。やはり、皆さんに紹介するからには、今も僕が心動かされるようなものでないといけない。
ということで、この一枚、「粋な男」。1994年に発表されたこのアルバムは、全曲スペイン語によるラテン名曲カバー集。偉大なシンガー・ソングライターであるカエターノの一枚として、カバーアルバムを選んだことに異論はあろうけれど、ここで聞かれるカエターノの歌唱のなんとみごとなこと。全15曲、あたかも彼のオリジナル曲であるかのように、歌いこなしている。

このアルバムが発表された翌年であったか、サックスの渡辺貞夫氏の招きで、カエターノはこのアルバムの編曲者でもあるチェロのジャキス・モレレンバウン他、数人のサポートミュージシャンを伴って来日、東京は六本木で一週間に渡りライブを行ったのであった。僕がカエターノの演奏を生で聴くのは初めてではなかったが、そのショーのみごとな構成、バンドの演奏の充実度、なによりカエターノの艶のある演唱に魅了されたのだった。
その日は、彼の名曲「サンパ」や「ヴォセ・エ・リンダ」も歌われたが、レパートリーの中心はこのアルバムからのもので、衣装もこのアルバム・ジャケット同様、シックなスーツ姿できめて、彼独特の軽妙な踊りを交え、文字通り「粋な男」の演出であった。
初めてカエターノの音楽を聴くという僕の連れが、ショーの途中、急に僕の方を振り向き、興奮気味に、そして嬉しそうに「おい臼田、おまえも、まだまだだな!」と言ったのを覚えている。すかさず僕も興奮気味に「当たり前でしょう!」と返したものだ。苛立たしさでも悔しさでもない、素直な賞賛として僕は答えたのだ。まさにあの瞬間、そしてあの頃のカエターノは、彼の音楽人生のauge(絶頂)にいたと思う。自分の作品を歌おうが、他人の作品を歌おうが、そこにいる人々、聞く人々すべての心を、音楽のもつ美しさと喜びで満たしてしまう、そんな圧倒的な力がみなぎっていた。ステージ上の彼が発していた、あれこそが、真のアーチストのオーラというものだ、と今でも思う。
ショーが終わり、舞台袖に下がろうとするカエターノ達の前に突如渡辺貞夫氏がサックスを手に現れ、「彼は70年代から、いつか日本に呼びたいと僕が思っていたアーチストです。この曲を彼に捧げたい」と前置きして、ジョビンの“Por toda a minha vida”を感謝の心をこめて演奏したハプニングは、僕が見て来た多くのライブの中でも最も美しいシーンのひとつとして思い出される。
話が、アルバムからショーへとそれてしまったが、このアルバム「粋な男」には、このショーの素晴らしさを追体験するに十分な美しさ、力があると、今聴き直して確認した次第である。

もうひとつ書き忘れてならないのは、このアルバムでキャリアの頂点に達したカエターノの、当時の最高の音楽パートナーであったチェリスト、編曲家のジャキス・モレレンバウンの仕事についてである。
ジャキスは当時50代前半のカエターノというアーチストの「円熟」を、みごとに編曲において演出して見せている。思うにカエターノという芸術家は、裸身のダンサーみたいな人で、歌い踊る自分に酔い、その自分を他人の目にさらすことの好きな人だが、一般大衆は必ずしも彼の裸身(のような芸術)を見て、心地よいとは思わないもので、ジャキスは、そのむき出しのダンサーに美しい音の衣装をまとわせて、一般の人々が安心して鑑賞できるように演出した、と言えばわかりやすいだろうか。実際、このアルバムでカエターノは、多くの新しいリスナーを獲得したはずだと思う。
この「粋な男」で花開いた、カエターノとジャキスの見事なコラボレーションが、次のオリジナル・アルバム“Livro”において、まさに結実することになるのである。今回は書くことを断念したが、このアルバムについてもいずれ書かねばならないだろう。なにせカエターノの「サージェント・ペッパーズ」なのだから。

カエターノ・ヴェローゾ。ブラジル音楽の前衛を走り続けて来たこの偉大なアーチストも、もはや68の齢を重ねた。私見によれば、彼の創作活動は“Livro”を最後に、力を失い、風貌もまるで「良識」ある文化人のそれのようになってしまったが、今一度、美しく狂おしい音楽の花を咲かせてくれないものだろうか。あのむき出しの、裸身のダンサーのようなカエターノは、いったいどこへ行ってしまったのか。名士の集いを避け、時代におもねることなく、自分の芸術を地道に追究するという、アーチストの本道を行けば、まだ大丈夫。復活できるはず。頑張れ、カエターノ。僕をもう一度ファンにしてみせてくれ!


註:
サージェント・ペッパーズ:ビートルズの残した名アルバム。正しくは「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」


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コメント

[C118]

まあ暴言ですけど、彼は音楽家としては、二流だったのでしょう。偽物くさいというか。結局、デビューの時から今まで、どの方向に進んでも中途半端だった。ポップカルチャーの偽物風味を表現するのが上手な人だったから、受けたのかもしれないけど、そういう方向性でも、ジルベルト・ジルやムタンチス、トン・ゼーなどの方が、才気に満ちた閃きがあった。振り返ってみれば、彼のキャリアにおける最大の成功が、"Debaixo dos caracois..", "Sozinho", "Voce nao me ensinou..."などのカヴァーだったことも、彼の器量の限界をよく見せているように思います。実は、ブレーガを歌うのがカエターノの本質なんじゃないかな。しかもどのカヴァー曲も、彼のオリジナルの曲より良かったりするし…
でも非常に頭のいい人だったから、パッポを駆使して、才能のある人や目立つ人に喧嘩を売ることで、自らの存在を主張したり、お遊びの亡命で箔をつけたりして、今日まで反体制をきどってきた感じでしょうか。すっかり文化人になっちゃったし。でもさ、薄いんですよね、彼の音楽も主張も。何も守るべきものがないんだ。根幹がない。すべてがその場限りの演技でしかないんだよね。
だから、今はパウラ・ラヴィーニと組んで、グローボ相手の商売に鞍替えして、お金儲けしてる。実に彼らしいキャリアの終わり方だと思います。
そうは言っても、またカエターノも聞いてみようか。確かに心に響くものがないんだよなあ。マティアバザールの方が聞いてて全然楽しいんだよね(笑)
  • 2010-10-25 08:58
  • こむろ
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[C120] 中途半端...うむ

おっと、極言してくれたねえ。このカエターノ賛および激励文を書いた者としては、その通り!、と相づちを打つわけにも行かないが、しかし、「中途半端」というのは、頷けるかな。ひとつのものを盲目的な愛で、そして鈍重ともいえるような根気で追究し続けるタイプのアーチストではないね。逆に若年から才気走って、芸術的な「匂い」に敏感で、ささっとそれ「らしいもの」を作るのに秀でたタイプだとは思うな。だからこそ、この年になると、妹のベターニアのような、地道に芸を深めてきた「本格」歌手のほうが、才能の熟成で客を魅了するのだろうね。
そして、何を隠そう、今夜も聴くのはアントネッラ、です。
よく飽きないね、おれも。彼女こそ本物の歌手、であり、歌手にとっての師、だなあ。
  • 2010-10-27 01:09
  • 臼田道成
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[C121]

どうも臼田さんの文章の趣旨に合わなかったことを書いてしまったようで、申し訳ありません。どうぞ私のコメントなぞ気にしないで、ちゃっちゃっと消しちゃっても構いません。よろしくお願いします。
マリア・ベターニアは年をとるにつれて、芸に深みが出てきてますね。8年くらい前に見たときは、すばらしいショーを見せてくれました。彼女のような真摯な音楽家は好感が持てて良いですね。
いや、私もあれからマティア・バザールを聞いてます。臼田さん、大変すばらしい音楽を思い出させてくれました。感謝しております。最高ですね。私なんぞまだ修行が足りないものですから、マティア・バザールの「タンゴ」に今更ながら魅入られてしまいました。毎晩中毒のように聞いています。そのまま「アリストクラーティカ」まで聞くと、とても幸せな時間を過ごせます。この頃のアントネッラは無敵ですな。本当にイタリアのポップスは質が高すぎて、毎度驚かされます。「これは反則だろう」って20年くらい前に聞いたときには思ったなあ。やっぱりイタリア音楽500年の伝統は、伊達じゃないんだなと痛感させられる次第です。
  • 2010-10-28 07:45
  • こむろ
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