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The composer of Desafinado plays

しばらく僕のサイト"ARGOinformation"にも掲載するのを忘れていた。サンパウロで発行されている月刊誌"PINDORAMA"に寄稿している「新・一枚のブラジル音楽」。まずは昨年12月号からご紹介。




Antonio Carlos Jobim
“The composer of Desafinado, plays”
アントニオ・カルロス・ジョビン
「ザ・コンポーザー・プレイズ」

Composer_of_desafinado


今回は「究極のイージーリスニング」としての名ボサノヴァ・アルバムをご紹介しよう。その名も“The composer of Desafinado, plays”。つまり、「デザフィナードの作曲家が演奏する」である。ボサノヴァ最大の作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンが、名曲「デザフィナード」を、「イパネマの娘」を、自らピアノで奏でた、まさにボサノヴァ決定盤!のはずである。が、なぜかこのアルバムは、あまり人気がない。少なくとも私の回りでは。なぜかといえば、それはこのアルバムが、「イージーリスニング」つまり「聞き流す」タイプのサウンドに聞こえるから、であろう。確かに耳心地が良く、これを聞きながら仕事もできるし、眠りにつくことも可能である。実際、僕などもその昔、大学の入学試験の前の晩にこのアルバムをリピートしながら、心を落ち着けて眠りを待ったものだ。
しかし、「イージーリスニング」であるからといって、このアルバムが軽視されるのは、私にはしのびない。このアルバムには、単なる「イージーリスニング」以上の重要な何か、があると思うのだ。

ボサノヴァの双璧と言えば、この作曲家ジョビンと、そして演奏家ジョアン・ジルベルトだが、ボサノヴァの体現者ジョアン・ジルベルトの声が行なっていることと、このアルバムでジョビンがピアノで行なっていることは、かなり近い、と僕は思う。つまり、饒舌でない、「ずらして」いる、抑揚が少ない、ということ。
まず「饒舌でない」だが、これは同時期に隆盛したボサノヴァのピアノ・トリオの演奏などと比較してみれば一聴瞭然。ジョビンは一枚のアルバムを通して殆どの部分を、なんと単音の連続だけ、つまり純粋にメロディだけを弾いているのだ。極端な話、指一本でもできることである。厳密には、バッキングのギターも自ら弾いているのだが、それは控えめなもので、主役はなんといっても、この単音によるピアノの旋律。しかしこの単音の旋律がなんと心地良く、美しいことだろう。この心地良さには秘密があって、実は彼のピアノのアタックはリズムに対して正確でない。つまり、ドラムスの打ち出す時間的に正確な拍から、ほんの少しだけ、前か後にずれているのだ。これをジョビンがわざとやっているのか、または「癖」なのか、はたまたピアノが上手くないからなのか、僕にはわからない。が、とにかくこの微妙な「ずれ」が、僕らの心の凝りをほぐしてくれるのは確かだ。
さらに、この単音の連なりとしての旋律には強弱があまりつけられていないことにも気がつく。そもそもジョビンの曲においては、和音と旋律との間の不協和によるスリリングな緊張と、美しい調和による弛緩との繰り返しによって、すでに音楽的強弱は表現されてしまっていると言える。そこにさらに音量としての強弱を加えることは表現の過剰であり、作曲段階で完璧に意図され、実現された強弱の美を破壊することになりかねないのだ。作曲家ジョビンはそのことを十分ふまえて、「平らに」演奏しているわけだろう。
しかし、ここでもジョビンのピアノは完全な平らでなく、微妙に強弱を付けている。これも意図的なものか、技術的稚拙からなのか不明であるが、僕らの聴き心地良さに役立っている。いや、これは「ジョビン節」とでもいうべき、個性として見るべきだろう。
また、ジョビンのピアノ、小さく聞こえるギターの他には、このアルバム以降、ボサノヴァの弦楽アレンジの定番となるクラウス・オガーマンのストリングスが、ピアノと一定の距離を保ちながら、これまた「饒舌でない」クールで控えめな対旋律を奏でる。
単音で、平明に演奏しても、ジョビンの作品はこんなに美しい。それは驚異的なことだ。

そしてこのような演奏法こそ、まさにジョアン・ジルベルトが声で行っていることだと思う。ジョアンの場合は十分意図的であると思うが、その声は、ここでのジョビンのピアノのように、強弱のダイナミクスを最小限の振幅に押さえ、彼の正確なギターのリズムからほんの少し「ずらし」ながら、または発音のアタックを弱めることで時間的に正確な印象を与えないようにしている。これらすべて、僕らの耳に心地良く響く要因であると言える。

イージーリスニング、ムードミュージック、BGM、なんと形容しても別に構わない。ただ、このアルバムが、透き通るような淡い悲しみをたたえながら、僕らの耳と心とに平安を与えようとする「究極の」イージーリスニングであり、ムードミュージックであり、BGMであることはわかっていただきたい。そして何よりだいじなことは、この20世紀ブラジルを代表する大作曲家が鍵盤の、まさに一音一音に心を込めて、我が子であるところの作品を奏でている、そのことにこそある。この点において、本アルバムはイージーにリスニングできようとも、イージーに作られたものでないことが明白なのである。

(Pindorama 2010年12月号)
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